トップ / ゆかりの人物

08 — 人物

男装して登った女性、
冬山に挑んだ新婚夫婦。

富士山の歴史は、山そのものだけでなく、そこに挑んだ人々の物語でもあります。女人禁制の掟を破って 男装で登った江戸の女性、幕末に初めて頂上を踏んだ英国外交官、そして命がけで冬の山頂に観測所を 築こうとした一組の夫婦。教科書にはあまり載らない、けれど富士山を語る上で欠かせない人物たちを 紹介します。

富士山に挑んだ、名もなき人々の記録

01

高山たつ——女人禁制を破り、男装して登った最初の女性。

江戸時代、富士山は宗教上の理由から「女人禁制」とされ、女性は2合目や4合目付近までしか立ち入る ことを許されていませんでした。この掟を破り、記録に残る限り最初に富士山頂まで登ったとされる 女性が、高山たつです。天保3年(1832年)、たつは男性の姿に扮装して登山者に紛れ込み、頂上への 道を成し遂げたと伝えられています。

女人禁制そのものが正式に解かれたのは、それから40年後の明治5年(1872年)、明治政府の布告に よってでした。高山たつの挑戦は、制度が変わるよりずっと前に、一人の女性が自らの意志で信仰と 掟の壁を越えてみせた記録として、今も語り継がれています。

02

ラザフォード・オールコック——外国人として初めて頂上に立った外交官。

幕末の万延元年(1860年)、初代駐日英国総領事ラザフォード・オールコックが、外国人として初めて 富士山の登頂に成功したと記録されています。江戸幕府は当初この登山願いに難色を示しましたが、 最終的に許可を出し、オールコック一行は大宮・村山口ルートから登頂しました。

オールコックはこの登山記録を著書『大君の都(The Capital of the Tycoon)』に詳しく書き残して おり、鎖国の名残が色濃い時代の日本人の風習や、山中で出会った人々の様子を、西洋人の視点から 観察した貴重な記録として今も参照されています。

ラザフォード・オールコックの肖像写真
ラザフォード・オールコック初代駐日英国総領事

03

野中到・千代子夫妻——私財を投じ、冬の山頂に挑んだ「芙蓉の人」。

明治28年(1895年)、まだ気象学的に高層大気の観測データがほとんど存在しなかった時代、気象学者 ・野中到(のなか いたる)は「日本一の高山である富士山頂で年間を通じて観測を行えば、天気予報の 精度を大きく向上できるはずだ」と考え、私財を投じて富士山頂に小さな観測小屋を建設し、冬季の 単独滞在観測に挑みました。

夫の身を案じた妻・千代子は、周囲の反対を押し切って自らも山頂に登り、夫とともに観測に加わります。 標高3,776メートルの山頂は当時の装備では想像を絶する極寒の環境で、二人はやがて相次いで高山病や 衰弱による重い症状に見舞われ、下山を余儀なくされました。麓からの決死の救助隊によって二人とも 一命をとりとめましたが、この挑戦は当初目標としていた冬季通年観測の達成には至りませんでした。

「芙蓉の人」として語り継がれる: 野中夫妻の挑戦とその顛末は、後に新田次郎の 小説『芙蓉の人』の題材となり、広く知られるようになりました。この命がけの挑戦から半世紀近くを 経た1932年、富士山頂に中央気象台の富士山観測所が正式に設置され、通年観測が実現します。 野中夫妻の挑戦は、その先駆けとして記憶されています。
登山装備で立つ野中到と千代子夫妻の写真
野中到・千代子夫妻冬季山頂観測に挑んだ「芙蓉の人」

04

角行と食行身禄——洞窟の行者と、山中で入定した指導者。

「富士講」のページで詳しく紹介した通り、富士講の開祖・角行は溶岩洞窟「人穴」にこもって荒行を 重ね、独自の信仰体系を確立した人物です。その教えを受け継ぎ、江戸庶民の間に富士講を爆発的に 広めたのが食行身禄で、享保18年(1733年)、7合目の烏帽子岩で断食の末に入定したと伝えられて います。信仰と実践が生んだ、富士山ならではの人物史の核といえる二人です。

次に読むなら

命がけの挑戦の後には、あたたかい一杯が似合う。

富士山とその麓が育んできたのは、信仰や歴史だけではありません。湧水と溶岩台地が生んだ、独特の 食文化を次のページで紹介します。

食と特産を読む →