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05 — 信仰

江戸の町に「講」があった、
「江戸八百八講」。

江戸時代、富士山への信仰は「富士講(ふじこう)」という庶民の登山団体として爆発的なブームに なりました。「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどの盛況ぶりで、各地に富士山を模した ミニチュアの山「富士塚」が築かれたほどです。その源流には、洞窟にこもって奇行とも思える 荒行を重ねた一人の行者と、断食の末にみずから命を絶ったもう一人の指導者がいます。

富士塚——江戸に築かれた、小さな富士山

開祖の生涯

角行——人穴に籠もり、氷の上で1000日の修行をした男。

富士講の開祖とされるのが、戦国時代末期から江戸初期にかけて活動した行者「角行(かくぎょう、 藤原角行とも)」です。伝承によれば、角行は諸国を巡って修行を重ねた末、富士山麓の溶岩洞窟 「人穴」にたどり着き、そこを拠点として厳しい修行に打ち込みました。氷板の上に爪先立ちで何日も 立ち続ける「爪立ち行」など、常人には耐えがたい荒行を重ねたと語り継がれています。

角行は独自の呪文や祈祷法、日拝(毎朝日の出を拝む行)などを体系化し、富士山を「浅間大菩薩」の 鎮まる聖地として篤く信仰する教えを説きました。この教えが弟子たちを通じて江戸の庶民に広まり、 後の富士講ブームの直接の源流になったとされています。

「参明藤開山」の文字とともに描かれた、机に向かう角行の肖像画
角行の肖像と伝わる掛け軸「参明藤開山」の名で描かれる

中興の祖

食行身禄——断食の末、山中で入定した指導者。

富士講を庶民の間に爆発的に広めたのが、角行から数えて数代後の弟子とされる「食行身禄(じきぎょう みろく)」です。伊勢出身とされる身禄は、油売りとして生計を立てながら富士講の教えを深め、 「富士山こそが世を平等にする神仏の山である」といった、当時としては先進的な平等思想を織り込んだ 教えを説いたと伝えられています。

享保18年(1733年)、身禄は63歳で富士登山を行い、7合目付近の「烏帽子岩(えぼしいわ)」と呼ばれる 岩場で断食に入り、そのまま入定(にゅうじょう、断食のうえで死を迎えること)したと伝えられて います。この壮絶な最期は弟子たちに強い衝撃を与え、身禄は富士講中興の祖として神格化され、以後 富士講は江戸市中で爆発的な広がりを見せることになります。

史実と信仰のあいだ: 入定に至る経緯の詳細や年齢などは史料によって記述に幅があり、 後世の信者による脚色が加わっている可能性も指摘されています。ただし身禄が実在の人物であり、 富士講の拡大に決定的な役割を果たしたこと自体は、複数の歴史資料から裏づけられています。
食行身禄と伝えられる、座した姿の木像
食行身禄の木像と伝わる像富士講関連資料

江戸の熱狂

「江戸八百八講、講中八万人」。

身禄の死後、富士講は「講」と呼ばれる相互扶助的な信仰組織として、江戸市中の町人たちの間に急速に 広まりました。「江戸に八百八講あり、講中は八万人」と形容されるほどの規模に達したとされ、 同じ講の仲間たちが積み立てたお金で交代に代表者を選び、富士山まで代参(代わりに参拝すること)を 行うという、庶民のための互助的な仕組みも発達しました。

富士山に登れない人々のために、江戸市中や各地には富士山を模したミニチュアの人工の山「富士塚 (ふじづか)」が数多く築かれました。実際の富士山の溶岩を運び入れて表面を覆ったものも多く、 これに登れば富士登山と同じご利益があるとされました。東京都内には現在も、江戸時代に築かれた 富士塚がいくつも現存しており、国の重要有形民俗文化財に指定されているものもあります。

石段が組まれた富士塚の頂に、本物の富士山が重なって見える様子
富士塚——登れば富士登山と同じご利益があるとされた富士山麓の富士塚の一例

御師という存在

登山者を迎えた、山麓の宿坊とガイド役。

富士講の巡礼者たちを山麓で迎え入れたのが「御師(おし)」と呼ばれる人々です。御師は自宅を宿坊 として提供し、参拝者の宿泊や食事の世話をするだけでなく、祈祷や登山案内も担う、いわば聖と俗を つなぐ専門職でした。山梨県富士吉田市の上吉田地区には、当時の御師住宅の面影を伝える町並みが 今も一部残っており、世界遺産の構成資産にも登録されています。

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信仰の山は、なぜ「自然遺産」ではなく「文化遺産」なのか。

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